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ファイブ・サマー・ストーリーズ
「ファイブ・サマー・ストーリーズ」

ファイブ・サマー・ストーリーズ

制作年度 : USAカリフォルニア 1972年 
監督 : Greg MacGillivray & John Freeman
時間 : 90分

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70年代サーフィンのアイコン的作品。音楽はビーチボーイズ他。USA全土からハワイ、オーストラリア、日本でも劇場公開され集客数の記録を更新した。アートワークはリッキー・グリフィン、「フィルモア」等のロックアートで知られるアーティスト。

ベトナム反戦ムーブメントから端を発したヒッピー文化は70年代に入ると自然回帰と精神主義のニューエイジに移行した。反戦運動、激変するアメリカ、サーフボードは9フットから6フットに短くなった。海というワールドエコロジーがサーフィンを進化させる。世界の激しい変化からエスケープして純粋な世界へ導くのがサーフィンとフィルムは伝える。撮影はハワイのパイプライン、サンセットビーチ、ホノルアベイ、カリフォルニアで出演サーファーはジェリー・ロペス、ジェフ・ハックマン、デビッド・ヌヒワ、テリー・フィツジェラルド、リノ・アベリラ、ビル・ハミルトン等。最高にカッコいい時代のサーフィンとカルチャー、それに時代を超越したメッセージは今もって新鮮である。

 66年―73年当時、サーファーとヒッピーがクロスした瞬間があった。

自由を求めた
2つの道、その接点
ヴェトナム反戦と人種差別撤廃が渦巻く真っ只中、
ショートボード・レヴォリューションは勃発した。
既存の概念を打ち壊し、新しい価値観を共有する。
サーファーとヒッピーが同じ方向に進んでいた瞬間、
2つの思想は、自由という同じ価値を創造した。

サーファー・メット・ヒッピー 
The moments Surfer encountered Hippie
1966−69―73
サーファーがヒッピーと出合った瞬間
時代は急速に変わり始めていた。世界はアメリカVS共産主義、中国原爆実験成功、米ソ核戦略激化と一触即発だった。そして1965年アメリカ軍による北ヴェトナムへの爆撃(北爆)はダムの決壊のごとく世界を変えた。時同じくして全米中に起こった人種差別撤回運動は非暴力主義を訴えるキング牧師の元、黒人ばかりでなく先住民族インディアン、後のハワイアン復興にまで拡大する。しかしキング牧師暗殺で世界は闇に落ちた。ジョンFケネディーといいアメリカには暗殺という最終手段がある。武力による対抗を訴えた黒人主導者マルコムXはブラックパンサーの内部抗争から命を落とし仲間達はポリスと戦い死んだ。   
1971年スライ&ファミリーストーンはアルバム「暴動」をリリース、全米中に暴動が勃発。黒人ばかりでなく男女平等権を訴えるウーマンリブ運動も激化、僅か40年前女性には人格が認められなったとは今では想像できない。また酷い環境破壊は企業や国家ぐるみの経済最優先が導いた過ちと気付いた人達が意見を言うようになったのもこの頃で、自然破壊反対勢力の基礎が築かれた。TVやラジオ、新聞、雑誌等のメディアの役割が大きくなるにつれ、物事や事態に対してアンチ主義(反対姿勢)を表現出来る空気が育み始めていたのだ。「一部の金持ちと政治家とそこに集まる自称知識人たちは膨大な不平等を作り出した。それは経済主導の価値決定に他ならない。我々は自由だ!」民衆の叫びはヴェトナム戦争反対と結び付き大きなうねりになり、それは20世紀最大のカウンター・カルチャーとなった。


♪一錠のピルで大きくも小さくもなれる
お母さんがくれる薬じゃなくてね
アリスのところへ行けば手に入るやつ
こっくりねずみさんの言った事を思い出して
脳にデリシャスなことをしなさい
「ホワイト・ラビット」BY ジェファーソン・エアプレイン


アメリカ西海岸は経済的恩恵を受け、アイビーファッションにロングボードで「人生はサン&サーフ」と誰もが楽しんでいた。1965年、徴兵制が始まると若者は次々と死と背中合わせのヴェトナム戦争へ送り出される。1967年サンフランシスコの小さな町ヘイトアッシュベリーにはキリスト風やインド風、ロックミュージシャン風、平和活動家、徴兵制から逃れて来た若者達が次々とヴェトナム戦争反対を掲げてピースインしていた。ラブ&ピースに代表されるヒッピーの思想は、アメリカ国内はもとよりインドやネパール、オーストラリア、ニュージーランド、スペイン、イギリス、モロッコ等にまで飛び火した。ドラッグ、宗教、精神世界といった、今までとは異なる価値観が認められ始めていた。

そんな一団の中に波に乗り生き甲斐を見出すサーファーと呼ばれ、他とは別視されている人種がいた。67年冬ハワイ・オアフ島ノースショーアーでナット・ヤングとボブ・マクタビッシュは車中夜を明かしながらラジオから流れるドノバンの「サンシャイン・スーパーマン」を聴いた。ボブがシェープした短いボードはハワイの大波でも大丈夫か?そんな事ばかり考えていた。彼等は長髪に裾の擦り切れたジーンズに上半身は裸、余りのワイルドさにカルフォルニアからハワイに撮影で訪れていたブルース・ブラウンは驚いたと言う。

1967年オーストラリア東海岸で波に乗ることに専念する者達が同時多発的に発生し始める。彼等は自給自足を目指しながらも近郊の町では地元民と上手くやっていた。戦争反対の平和理念を掲げる波に乗る種族は世代間のギャップをすぐに埋めた。第2次世界大戦と朝鮮戦争で多くの若者を失った苦い経験から、オーストラリやニュージーランドでは若者の数は国家の存亡に関わる事を身を持って体験した世代がいた。だから反戦ムードは若者ばかりか年長者まで浸透した。もっともロングへーアーに薄汚いファッションに嫌悪感を抱く人達も少なくなかった。サーファーは海岸線に広がり、ヒッピーは山に篭り高い自給自足率を保ち始めていた。

1969年平和を求めて40万人がウッドストックに集まり3日間の予定が4日目の朝を迎えて、やっとファイナルのジミ・ヘンドリックスと新しく結成されたばかりのバンド・オブ・ジプシーの初音、チューニグが始まった。どのバンドもエキサイトし過ぎて演奏時間を大幅に上回ったのが原因である。ジミヘンは「星条旗よ永遠なれ」を爆発的ギターで演奏した。白のフェンダー・ストラトキャスターはトレモロアームに引っ張られて北爆する音を再現した。徴兵制で若者が戦火に送られていく、彼等はどんな気持ちで片田舎に集まったであろうか?

67年から69年、ニューヨークでドラッグ体験した横尾忠則先生は「意識の革命」と語った。そして当時を「みんな頭を抱えて大音量でロックを聴いている。イギリスから来たクリームというバンドで3人とも薄汚かったよ。明日、赤紙が自分にも届くかもしれない、そんな状況で人間は正気でいられるわけがない」と書いている。話は飛ぶがアメリカのロックやアートカルチャーは64年ビートルズ、66年ミニスカートのツイギー等、ロンドン発がリードしている。67年ビートルズは「サージャント・ぺッパ−・・」ストーンズは「サタナティック・マジェスティック・・」でサイケデリックを音に具体化、クリームの爆音はサイケデリックロックの真骨頂として認められた。ちなみにサイケとは脳にデリシャス、だそうだ。ビ−チボーイズ全盛から一変して破壊的なロックが主流になると、ロックはたただの音楽ではなく強いメッセージを伝えるものになった。それまでの平和極楽恋愛ものから政府を批判したり反戦を訴えたりドラッグ体験を歌ったりメッセージ色が強くなる。それらに扇動されるかのごとく、多くの者が極端な宗教、ドラッグ、自然回帰主義といった現存の自己を開放する方向に向った。何かにすがりつきたい当然の理由はゴロゴロしていた。むしろそれらを拒む者は徴兵制や現存の政府を肯定する対場と見なされた時代であった。

サーファーはカウンター・カルチャーを好む習性があるのであろうか?ある、サーフィン自体が刹那であるからだ。現存を破壊して先に進む、変化こそサーファーの宿命である。戦争や人種差別とは別世界の理想郷を早くから求めたためヒッピーと遭遇出来たのであろう。同時にアンチ政府な姿勢や現存の社会への不満は彼等の思想とも一致した。またサーファーはヒッピー以上にサイケデリックなイルージョンを現実のものにするために努力する事も惜しまなかった。チューブライディングである。

一部は常軌を逸し始めていた。象徴的な事件はヒッピーのカルト的教祖だったチャーリー・マンソン一団によるシャロン・テート殺害事件、それにローリング・ストーンズのロンドン・ハイドパーク無料コンサートで警護団ヘルスヘンジェルズに黒人青年がビリヤードのキュウで叩き殺された事件であろう。ちょうど不吉な曲「悪魔を哀れむ歌」がスタートした最中だった。この曲のレコーディング中、ぶっ飛んでいた頃のストーンズの象徴オリジナルメンバー、ブライアン・ジョーンズは自宅のプールで謎の死を遂げている。レインボーカラーのヒッピー思想は行き止まりを見えさせ始めていた。ジョニー・ミッチェルは「60年代、人々は理想という夢を持っていた、70年代夢を捨てた人たちは自己を求めて旅に出た。80年代それにも飽きたらなくなった人たちは金を求めた。」と言った。

1975年アメリカのヴェトナム戦争は北ヴェトナムの勝利により終焉を向えた。
帰還した戦士達の多くが症候群に悩まされている。もちろん当事者ヴェトナムでは枯葉作戦の影響が後世まで人々を不幸にしている。そして舌も乾かないうちにまた事が起こる。反省が出来ないのが人間の運命なのか。90年代の湾岸戦争しかり戦争は続く。1966年、戦争反対と叫びながらデモを始めた若者達は巨大なムーブメントを世に送り出した。彼等は知っていた。「自分ひとりでは何も出来ないけれど皆が集まれば巨大なパワーになること」を。だからデモやストライキから抵抗を始めた。今じゃ自分だけの裕福を求めて政治や経済は無縁の世界、誰に文句を言えばいいのかさえ見失っている。近年デモや学生運動、ストライキなんて皆無になったが60年代から70年にかけては日常だった。誰もが反対意見を言える時代、フラワーチルドレンが後世にもたらしたのは自由、そして自己責任ではなかろうか?だから彼は破壊したのだ。今、フラワーチルドレンが海の向こうからやってきたら、きっと地球温暖化を止めるために、ピースインをするだろう。

「花咲く時代の子供達」フラワーチルドレンは、ヒッピーという歴史的ムーブメントを創り出し、それは今もって語り継がれる。
LOVE&PEACE ファーエバー 2007



ティモシー・レアリーは語った 
「サーファーこそダンスの意味を知る種族である。」1976年 

スティーブ・ペズマン(Steve Pezman/ 1942年カリフォルニア出身、1971年から91年まで20年間USサーファー誌を発行。91年からは広告を最小限にしたサーファーズ・ジャーナル誌を発行して現在に至る。)は、ティモシー・リアリー博士 (カリフォルニア大バークリー校で心理学の博士号を取得後、ハーバード大学教授だった1963年、幻覚剤を学生と実験した事から解雇。その後は「LSDのメシア(救世主)」としてヒッピー文化のシンボルになった。1997年他界、本人の遺言通りに米セレスティス社により宇宙に打ち上げられた。)へ インタビューをした。

ティモシー・レアリー博士はサーファーを人類の先駆者(神)としてとらえていた。それは人類の屑、人類の無責任な部分とは正反対に位置する存在である。また博士は、人間の最も崇高な運命とは宇宙的な純粋な禁欲主義状態へ発展しつつある存在形態と描写した。それは生命を持つ種のひとつとして人間が到達し得る最高のゴール、到達点である。歴史的に振り返れば、人間は豊かな生活を求めて川岸に面した断崖絶壁に商業都市国家を建設しながら発展した。その日の糧を蓄える事から始まり、必要以上の糧を蓄える事に専念して、蓄えている糧の量が多ければ成功者として認められた。しかし博士は、それは偽りの偉業で、存在理由すら偽りと強く語った。博士曰く、サーファーは、地上のどの部族より早くこの事実、「ダンスこそが全てであること」を悟っていた。サーファーこそ見習うべき生きたる見本である。「今、ここに、存在する/Be Here Now」という完璧なサンプル、それがサーファーである。そしてチューブライディングこそ完璧な実例である。君はそこで連綿と続く時間の中の一瞬のために生き、君はバレルになるチューブに包み込まれ、君の波跡は背後に消えつつ、君の足跡は砂上の波に洗い去られる。君がどこにいたか、君がどこへ行くつもりかは問題ではない。その瞬間どこにいるかが全てだ。サーファーはそのために生き、その瞬間を少しでも多く得る為にサーファーは人生を設計している。ある意味で、この事実こそ地上で生活する人間が求め得られる最高位置への到達なのである。かくして私は、人間とはこの使命を実行する事で社会秩序へ参加する部族だという考えるに至った。さらに教授は陸と海との境界線を維持する事の重要性を語り、富の蓄積など、ダンスに見合うだけの価値がない事を教えてくれた。 博士との会話で、私はサーファーであること、波を求め、波にのり人生を送ることはOKと確信出来た。さらに私は歳をとり波乗りの技量が衰えようとも、心が身体に取って代わる事も知った。肉体が衰えても努力を続ければ依然として100%でいられる。私のサーフィンが衰えようとも、そこから得られる喜び、報酬は依然として完璧で、得るべき価値のあるものである。
| サーフフィン ムービー | 19:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
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