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ホットバタードソウル
ホットバタードソウル
監督 ミック・ウォーター
音楽 ホワイトホース (アンドリュー・キッドマン、ニール・パーチェス・ジュニア、ティム・ゲイズ(元タマンシャッド)他
2008年度作品

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ホットバタードソウル
 
1971年シドニーのテリー・フィッジェラルドが設立した前衛的サーフボードメーカーの歴史を描いた作品。69年シドニー、71年ハワイ、76年伝説のジェフリーズベイや70年代から探索が始まった未開のインドネシアへのトリップ等、ホットバータードの歴史は、そのままオーストラリアサーフィンの歴史である。コンテスト以上に個性をモットーに選ばれた個性的なメンバーで構成されるチームは、オーストラリアは元よりテリーが旅した南アフリカ、インドネシア、南太平洋の島々、ブラジル、ヨーロッパ等で活躍する。チームライダーの個性には驚かされる。コンテストに出場せずにスタイルを波の上で表現するアーティストの集団とも言える。70年代後期から80年代コンテストに出場していた頃のデレク・ハインやドタヒチのポトのサーフィンは今見ても圧巻だ。テリー・フィッツジェラルドは今も地元シドニーのノースナラビーン、インドネシアや南太平洋、どこにいてもその日一番の波で昔と変わらぬソウルフルなマニューバーを描き続けている。「サルタン・オブ・スピード」、スピードの皇帝は永遠である。だが圧巻は1976年テリー・フィッツジェラルが滑る南アフリカ、サーフィンのクラシック、古典的名ライドである。

ホットバタードソウル2

音楽は、テリー・フィッツジェラルドのコーディネートで、アンドリュー・キッドマン、ニール・パーチェス・ジュニアに加えて「モーニング・オブ・ジ・アース」のサウンドトラックを担当したタマンシャッドのギターリスト,ティム・ゲイズが加わりバイロンベイでの長いセッションを経てホワイトホースが結成された。
このサウンドトラックはオールマンズブラザースバンドのマウンテンジャムの如き過程を経て、このフィルムを大画面で全員で見ながら録音された。ちなみに6回目の録音で全員の納得に至った。差し替え一切なし、全編1時間のインストルメンタルの大作だ。
全員でフィルムを見ながら即効で演奏された。全編のロックギターが絡み合う。

テリー・フィッツジェラルド
Terry Fitzgerald
スピードの皇帝

ホットバタードソウル6

1950年シドニー出身 テリー・フィッツジェラルドは1971年ハワイからシドニーに戻ると破産、妻は妊娠していた。金貸しから500ドル借りてVWコンビを購入、その車を担保に銀行から500ドル借りブルックヴェールに家を借りシェープを始めた。ハワイで当時のオーストラリアのボードが役に立たない事を体験すると、ハワイのピンノーズとピンテールを自分のデザインに取り入れた。テリーがシェープしたボードを見てグラッサーは「これは売れない」と判断、テールを狭めるためのウィングやレールトゥーレールの切り返しを安定させる小さなスワローテールは当時としては余りに奇抜過ぎるのが理由だった。

ホットバタードソウル4

しかしテリーには「スピードこそ全てだ」という強い確信があった。ハワイでテリーのサーフィンは世界中から注目されていたのも他と違うスピードがすでに見えていたからで、さらなるスピードの追求した。余り知られていないがその冬にテリーはディック・ブリューワーに誘われカウアイ島に家に招かれシェープの基本を伝授されていたのだ。
同年末にテリーはホットバタードを設立。名前は1969年アイザック・ヘイズのアルバム「ホットバタード・ソウル」から由来している。コンテストではベルズやスタビーズ、ハワイで優勝「スピードの皇帝」と呼ばれるまでになる。 

個性的なチームライダーを配して時代をリードした。デレク・ハインド、スティーブ・ウィルソン、ベテア・デビッド、テリーの長男と次男のジョエル&カイと個性的な顔ぶれは今も変わらない。ライダーはコンテスト主義ではなく自己のサーフィンを追求するスタイルが求められる。
大手サーフィン企業が市場拡大を努める中、ホットバタードは設立当初のファミリー・ビジネスを継続する数少ない成功例である。テリーのスタイルはサーフィンだけでなくオーストラリアの多くの独立系サーフィンインダストリーやアーティストへ大きな影響を与え続けている。
昔からサーフィンのスピードもさることながら運転も速く、波さえあればシドニー/ゴールドコースト間を最速8時間で走った。現在は山奥にまでスピードカメラが設置されておりスピード違反は確実に捕まる。それでもテリーはチューンされたワゴン車で今日も海岸線を突っ走る。

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サーフィンワールド誌2008年7月号より






Hot Buttered Soul ホットバタード・ソウル

デレク・ハインド 「サンセットビーチ、ジェフリーズベイ ビッグベルズ、そこでのテリーの存在は特別だ。パイプラインのジェリー・ロペスのようにね」

アンドリュー・キッドマン 「テリーはボードを正しく削った。それも信じ難いシェープだった。さらに マーティンがエアブラシで人々を魅了し、それは完璧なアートだった」

Sultan of Speed スピードの皇帝
1971年、テリーはディック・ブリューワーに招かれカウアイ島の自宅で新しいサーフボードのデザインについて時間を費やし理論を進化させた。圧倒的なスピードこそテリーが求めていたデザインで、ブリューワーのアウトラインとテリーのコーンケーブとウィングが試された。特にロッカーとレールは2人のアイディアが見事に融合、ショートボード革命期の最終時点での出来事である。このデザインこそ後世に大きな影響を及ぼしたミニガンのベースである。ホットバタードの設立に付いてテリー・フィッツジェラルドは「ハワイから戻ると破産して妻が妊娠した。金貸しから500ドル借りて車を買ったんだ。銀行へ行きその車を担保に500ドル借り、その500ドルでシドニーのブルックヴェールに家を借りて表をシェープルーム、裏に暮らしていた。」と当時を振り返る。1971年に設立されたホットバタードはかくして設立、そしてオーストラリアで最も革新的なサーフボードメーカーとしての道を歩み始めた。テリーのボードと言えば余りに斬新で他と違い過ぎるので最初はまともには見られていなかったのも事実である。しかし世界のメディアはハワイノースショーアーでのテリーのサーフィンを大きく取り上げ、瞬く間にホットバタードは地元ノースナラビーン一番のローカルブランドになった。金髪の爆発アフロへアーをなびかせてサンセットやワイメアのビッグウェーブを他のサーファーとは全く異なるラインを描き、スピードこそ全てと言い放った。さらにホットバタードを決定的に世界中で有名にしたのは、当時シドニー美術大学の生徒だったマーティン・ワーティンソンのアートであろう。その後サーフボード全面にエアブラシでサイケデリックなデザインを施すのが世界的流行となったが、始まりはテリーのアイディアである。

スピードを追い求める情熱はサーフボード作りに素早く反応した。70年代多くのプロサーファーは自分のボードは自分で削ったが、中でもテリーのボトムは他と決定的に違った。現在でこそ当たり前なコーンケーブだが、40年代ボブ・シモンズはボードを浮かせるためにコーンケーブを施した。ショートボード革命期にはスピードを得るためにコーンケーブの改良が加えられ、テリーこそ自らのシェープとサーフィンでそれを実証した張本人である。「スケートボードの雑誌を見ていてビックリしたんだ。プールのループで滑っていた。我々のサーフィンにはない何かをインスパイアされた。当時は誰もが異なるアプローチだった。なぜなら誰もが自分のボードは自分で削っていたからね。削ってはお気に入りのポイントで行きサーフィンする。そしてボードは自分のスタイルに合わせて改良された。だからシェーパーは有利だった。自分のサーフボードを自分で改良できる当時のサーファーには多様性があったね。サーフボードを自分好みに削れたからね。」

テリーの信条はフリーサーフィン。コンテストには熱心ではなかったが波さえあれば何処へでも素早く飛ぶ。「2000ドルかけて南アフリカへ行きコンテストで勝って500ドルを稼ぐ。経済なんか関係ない。それ自体がサバイバルだった」と当時を回想する。しかし71年にはオーストラリア・ナショナルタイトル、ベルズ、デューク・カハナモクではファイナルに残っている。翌72年もデュークでファイナリスト、そしてベルズで優勝。75年には地元ノースナラビーンでオーストラリア・ナショナルチャンピョンを獲得、ハワイのヴェルジーランドで開催されたライトニングボルト・プロコンテストでも優勝、現在のASP(当時はIPS)がスタートするとツアーの半分程度しか回らないにも関わらず総合ランキング9位、80年にはバリで初めて開催されたプロコンテストで優勝している。余りコンテストには熱心ではないと言いつつも結果を残し、しかも自分のスタイルとラインを変えずに勝てるのは見事である。また毎年1月にナラビーンで開催されるワールドプロジュニアは1980年テリーの提案でホットバタードがスポンサーになりスタートした。テリーの発想は「アンダー21が世界に出るための舞台を作ること」でありその精神は現在も変わらず引き継がれている。

古典的名作サーフフィルム「モーニング・オブ・ジ・アース」と「ファイブ・サマー・ストーリズ」でテリーの71年ハワイを見ることが出来るがそのスピードとラインには脅かされる。またクラシックフィルム「フリーライド」「チュブラースウェルズ」「ファンタシー3作には76年南アフリカ・ジェフリーズベイでのライディングが異なる角度から撮影されたがまさに歴史的ライディング、これぞ「ザ・スタイル」だ。
サーフィンのスピードのさることながら移動の速さも普通でない。昨日まで南アフリカにいたと思えば今日は日本、はたまたフランス、ブラジル、インドネシア、南太平洋の島にいる。それでも年間300日は海に入っている。ホットバタードの歴代のライダーを見れば一目瞭然だ。デレク・ハインド、スティーブ・ウィルソン、ベテア・デビッド、彼等はコンテストに関係ない世界でサーフィンを進歩させている。それも兵ばかりである。例えばデレクはフィンレスサーフィン、ベテアは巨大なチョープーでのトーインと現在も鋭角的な部分でリードしている点も見逃せない。2人の息子、カイとジョエルもコンテストとは関係ない世界で一番尖がっている。ジョエルはアンドリュー・キッドマンのフィルム「リトマス」でウェイン・リンチ大先生とサーフィンするが凍て付くヴィクトリアを裸でサーフィンしている。カイはチョープーの巨大なチューブの中でポーズする。門下生を見ればテリーの血が完全に引き継がれているのが分るであろう。

 テリー・フィッツジェラルドこそ、オーストラリア・サーフィンの時代をリードする存在である。昨年、南アフリカのジェフリーズベイを皮切りに世界各地で「ホットバタード・ソウル」が上映されているが、76年のヒストリックなライディングを始めインドネシアのシークレットポイントやタヒチでのドラマ等、斬新な映像を見る事が出来る。制作は「ビリーブ」で一躍脚光を浴びたミック・ウォーターズと「リトマス」と「グラスラブ」のアンドリュー・キッドマンである。サウンドトラックはアンドリュー等が完全オリジナルで固めているが、フランスのサーフフィルムフェスティバルで作品同様に最優秀サウンドトラックにノミネートされている。

デレク・ハンド
「テリーは私を息子のように扱ってくれた。私にとっても 昔と変わらず父のような存在だ。彼は全てを与えてくれた。見返りなんて関係なしにね。テリーに誘われ最高のボードに出会えた。」
| サーフフィン ムービー | 19:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
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